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東北にいた20日間で考えたこと

東北にいた20日間で考えたこと

2011年4月27日

3月23日、仙台へ向かいました。

海外の緊急支援を専門とするADRA JapanというNPOに応募をしボランティア第一陣として。

この参加する条件としては、13日間の食事を自分で持っていくこと、0度のなかで寝られるカッコ。

10年前によく使っていたバックパックにキャンプ用品を詰めて。

そして、静岡県人らしく甘夏とお茶も持っていきました。

小長井農園さん・まるかわ製茶さんご提供本当にありがとうございました。

仙台では避難所のお手伝いをしたり、炊き出しをしたり。

避難所で求めらるものは2、3日で急激に変わりました。

物流の変化、避難者の心の変化。

緊急の支援はスピードだと強く感じました。

行く前に言われたのが支援は

自助・共助・公助

と3段階がある。

理想は自助、支援は自助に向かうためのサポート。

違う日は支援物資を福祉施設に届けたり。

福祉施設は指定の避難所から外れており、行政の目から外れた場所に支援をする。

他に泥かきをしたり。

個人的に時間を見つけて避難所でマッサージをしたり。

(実は私、タイ式マッサージの資格があるんです)

マッサージをしていると、ゆっくりと津波の事を話して頂く方が多かったです。

皆さんから「生きている今に感謝」という言葉を聞きました。

13日目からADRA Japaを離れ、仙台で生産者と会ったり同業者の八百屋と会ったり。

そして石巻・気仙沼・陸前高田に行きました。

そこでこれから自分がやるべき事も考えていました。

そして東海地震の事も考えていました。

私が住む沼津で地震が起きた時、どう行動するか?

最悪のパターンを想定。

地震直後、反射的にとにかく高い場所に歩いて避難をする。車は使わない。

津波に巻き込まれたら“生きよう”という強い意志を持つ。

水がひいたら、まわりに火が飛ばない広い場所が確保できたら暖をとるために木を燃やす。

あらかじめ家族と決めていた避難所へ行く。

食料は物流が遮断され5日は入ってこないこととする。

冷蔵庫の食品を計画的に焼いて食べる。

また破損した沼津港の倉庫から魚などを配給をして頂き焼いて食べる。

1週間で支援物資が入り始める。

震災後からの避難所の運営は、まずはじめに運営組織を作る。

普段から地域で運営するトップを何人か決めておく。(リスク回避も考え)

運営組織は自治会のコミュニティをうまく使う。

衛生を第一とする。避難所の体育館を土足禁止に徹底することなど小さなことが重要。

10日目ほどから東名が仮復旧し、緊急車両が入りはじめる。

緊急支援をするNPOにコンタクトがとれるように普段からしておく。

ガソリンは20日間入らないものと考える。

全国からボランティアが集まるので、社会福祉協議会のボランティアセンターに情報が届くようにする。

ボランティアセンターがうまく機能していない場合は、緊急支援を得意とするNGO団体と協力し受け入れ態勢を作る。コーディネートを人材派遣会社の方にも協力して頂く。

と、1ヶ月ですることはこんな事が想定できるかなと。

その後は、生活を取り戻す事。

生活を始めるための物資。これを買い揃えたり、行政から支援されたり。

買えなかったり、支援から外れてしまった方には、ネットを使って支援をしてもらう。

ということでそのシュミレーションも考えこのサイトを作ってみました。

Re LIFE  http://fujiyama-veggie.com/relife

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と想定しましたが、あくまでも物事は臨機応変に対応。

なので、決まりきった避難方法ではなくいろいろなパターンをを想定しておいた方がいいような気がします。

今回、東北で思ったことは、1人では生きていけないということ。

一番強いのは助け合い。

これは、普段から地域のコミュニケーションが大切なような気がしました。

といった感じで、東北では多くのことを考えました。

これからのその考えたことを実践していこうと思います。

カテゴリ: 未分類 11:59

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